「二区大屋台」後方の飾り大幕に丸北の紋章があるが、これの由来については定かな説を伝授されて無く記録も見当たらない。

万延元年(1860年)に作られた「二区大屋台」の飾り物に、その紋章が施されている事から北の意味を探り、その由来を後世に伝え残す必要があるとの声に、地名説にて以下に記載する。 安土桃山時代前期は、現在の地に人家無く、館山城跡のあった館沢やその周辺の滝八幡地内に居住していたと町史にあり、豊臣秀吉公の町割り整備令にて現在の地に町割が行なわれ、それ以降、道の両側に軒を連ねた民家や商家が少しづつ増え、江戸時代には旅籠として町が栄えたとある。 この頃から、当地域の家々には屋号や紋章があり、旧地名ともども親から子へと近年まで語り継がれて来ており、その中に北陵と言う地名も伝えられて来ていた。

では北陵とはどの辺りを指すのかであるが、旧道の柿の内集落への追分となっていた旧矢田部豆腐店脇の道より北側の地名で、親や古老の多くは、現会田病院辺りから北方面を北陵と云う地名であったと話す。北陵の陵という漢字は、大きな丘、みささぎ、大きな墳墓などの意の字であり、当地域の西側に愛宕山があり、その稜線がなだらかに東に下がり延びているので、昔の町並みから見て北の大きな丘としての呼び名であるのも一説である。

陵を北の墳墓として考察した場合、この附近に古い墓石が数多く点在している事実と、当地に大きな地蔵尊が鎮座することと関連性があるのかも知れず、北陵は北の墳墓という意も一説である。

これらから、北陵の地名の由来を断定出来ないが、地名が存在していたことは事実である。

また本来、神社やお寺は町外れに所在しているのが多く、当地に鎮座する地蔵尊辺りも北のはずれで有ったが、神社やお寺が現在では町の中心地になるくらい、街道沿いを南北に町が発展していったため、いつの頃か、町内を二分割した呼び方が生まれ、南方面を上(かみ)北方面が下(しも)と近年まで言われていた。

そのため、大屋台が出来た当時の記録に「下町に屋台出来る」とあるので、このころ既に上町と下町の呼称があり、家々に屋号や紋章がある時代であるから、地域の紋章である丸北も既に上町の呼び名が存在していたため、商家が多く財力のある下町では、下の字を嫌い北陵の地名から北の字を採用したと推察する。 なお、上町・下町の境は明確で無い。

その丸北の紋章は、万延元年に作られた大屋台の彫り物三点と破風二点に分刻され現存している。

よって、屋台の丸北のデザインが第二区の紋章であり、大幕はそれを再現したものであることを付記する。

 

平成24年9月25日                              矢吹町第二区自治会 会長 大野康統

 

追記

・ 左右の飾り戸へ取付る飾り彫り物は、魚龍の大きさや羽の位置などに違いがある。

・ 下記以外に、大屋台正面の破風の合わせにも丸北がある。

 

1.大屋台後方の大幕の丸北

2.大屋台中央の彫り物に取り付けられている丸北


3.大屋台飾り戸の彫り物に取り付けられている丸北

4.大屋台飾り戸の彫り物に取り付けられている丸北